創作小説

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ほら探日記Ⅱー36 初対面 3


 普段の信次郎なら、部屋に入るなりドカッと座り胡座を掻くのだが、今回は母・ユキと彩音との対面がどんな展開になるのか心配で、座る気になれず立ち尽くしたままだった。
 そう、いざとなったら彩音と共に部屋から逃げ去る準備をしていたのだ。


「貴方のお父さん、元気なの?」
 ユキの夫である孝太郎を、貴方のお父さんと呼んだ。キターと、信次郎は思う。
「父はとても元気にしています」
「そう。それは良かったわね。所で、温泉は好きなの?」
「はい。好きです」
 話の展開が保来の想像と違う。保来は不思議に感じた。


「好きならば、暫く此処に泊まっていきなさい」
 彩音は、ユキの真意を測りかねたのか、少し間を置いてハイと返した。


「母さん。それは駄目だよ。彩音は俺の所で働いているんだよ。好き勝手にされては困るよ」
「何言っての。どうせ、あんたの所なんか仕事が無いんでしょ。和ちゃんから聞いてるわよ。忙しいと言うのなら、あんたが先に帰って仕事すれば良いじゃ無い。早く帰りなさい」
 藪蛇というかとばっちりというか。信次郎は何も言い返せなくなってしまった。


 母・ユキの言葉に素直に従う信次郎では無い。それに、彩音は旅館に置いとくとしても、和枝は連れて帰らなければならない。
 予想と違う展開に信次郎は戸惑う。母の考えが掴めない。信次郎は考えるのを止めて、取り敢えず温泉に入ることにした。

 まだ、お客さんがチェックインするまで時間がある。大浴場は清掃され、物が整頓されている。
 旅館の跡取りである信次郎は、本来なら父親の代わりに旅館の主、つまり支配人に収まっていなければならない立場。
 一応、短い期間ではあるが、主になるための修行はしている。その所為か、旅館内の様子に自然に目が向く。


 それはそれとして、矢張り内風呂よりは温泉大浴場の方が身体が温まり、リラックス出来る。生まれて来た時から嗅いできた臭いは、いつ帰って来ても懐かしく感じる。


 隣の女風呂から、エコーの掛かった水音、物音が聞こえて来る。和枝が入っているのだろう。
 少しして、女風呂にもう一人入って来た。声からして彩音である。暫くの間、二人は小声で何やら会話していた。が、何を話しているのか迄は分からない。


 信次郎は浴場から出て脱衣所に移った。
 タオルを捲いたまま、ドライヤーで髪の毛を乾かしたり髭を剃っていると、男風呂に誰かが入って来た。
 タオルを捲いたままの和枝だった。信次郎に近づくと彼の耳元に口を寄せて来た。


「私と彩音ちゃんは此処に残るから。お母さんが彩音ちゃんの様子を見たいんだって」
 小声で語り掛ける。信次郎も釣られて小声になる。
「彩音の何を見たいんだ?」
「旅館経営に興味を持っているかどうかでしょ」


「まさか? 母さんは彩音を自分の後継者にしようなんて企んではいまいな?」
「多分、そうしても良いと思ってる。でも、この事は未だ彩音ちゃんには内緒よ」
「でもさ、なんで和ちゃんも残るのさ?」
「お母さんは、私が彩音ちゃんの面倒をみながら、それとなく探って欲しいって」


「それじゃあ、探偵事務所はどうなる?」
「信ちゃん一人で頑張るか、それとも少しの間、閉めちゃったら。どうせ調査依頼なんて殆ど無いんだから」
 和枝にまでそう言われると身も蓋もない。しかし、今の信次郎は、母の方針には逆らえない。
 何しろ信次郎は母にとって不肖の息子。それを彼自身も承知している。


大工道具・砥石と研ぎの技法
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誠文堂新光社