父・孝太郎が戻ってから数日経った。
「わし等、旅館の方に行くから」
孝太郎は信次郎に突然告げる。信次郎は、いよいよ決着しに行くのかと胸が騒ぐ。
孝太郎と幸恵が実家の旅館に着くと、真っ先に娘の彩音が出迎えた。木村和枝も現れる。
いよいよ波乱が始まる。二人は和枝に案内され、女将・ユキの待つ部屋へと向かう。
ユキは、前もって彩音から夫・孝太郎達の来訪を聞いているので驚きはしない。孝太郎と幸恵が部屋に入ると、ユキの鋭い視線が二人を刺す。
「ユキ。色々心配掛けて済まなかった」
「どんなご用で来たの? 私に、離婚用紙に捺印して欲しいの?」
いきなりである。ユキの言葉は、弁解を許さぬ程峻烈だ。
「離婚を望んで遣って来たのではない。だが、離婚した方がスッキリとするならそれはそれで良い。しかし離婚となると、相続とかが問題になる。最も、俺はこの旅館もその他の財産もユキや信次郎に総て渡すつもりでいるが」
「離婚はしないと言ったら、あなたはこれからどう生きる積りなの?」
「申し訳ないが、ここに居る幸恵と北海道で暮らしたい。俺はどうも、不特定多数の人達と接するのに疲れた。あの、北海道の自然が溜まらなく好きなんだ。動物たちと接して生きる道を望む。北海道に戻ったら、俺は二度とこの家に帰らない。北海道の地に骨を埋める積りだ」
「私が嫌なの?」
「そう言うことでは無い。ユキは優秀な人間だ。俺が居なくても充分遣って行ける。幸恵は俺が居ないと困る。今は人に貸している牧場も、この先どうなるか分からない。もし、何かあっても対処するに幸恵一人では荷が重すぎる。支えになってやりたい」
「分かりました。あなたの望む方向を認めます。ただし、彩音さんが望むなら、私が預からせて頂きます。それで宜しいですね?」
ユキのその言葉に、幸恵が口を開いた。
「はい。彩音を宜しくお願いします」
ユキが、彩音の意志を優先してくれると知って、彼女は安堵する。
この結論に至るまで、幸恵も散々考え抜いた。その末に出した結論である。
彩音に牧場を継いで欲しい気持ちはあった。しかし、中途半端な、否、小規模の部類に入る牧場を彼女一人に背負わすのは心苦しい。
結婚したにせよ、年老いた両親を抱え、彩音が果たしてどれ程耐えられるのだろうか。そう思うと、やはり自由にさせるのが彩音にとって悔いが残らない生き方だろうと考える。
そんな思いもあり、牧場に夢を抱く若い人達に場所を提供した。
勿論、牧場の総てを彼等に手渡したのでは無い。仮に彩音が牧場に戻ってくるようなことがあれば、彼等の仲間に入って素晴らしい企業に育てて欲しい。
それまでは、若い人達の指導も兼ねて、もう暫く牧場経営に携わる積リなのである。
此処でもやはり、後継者問題はついて回る。
大きく揉めると思ったが、以外にも簡単に問題は決着した。結局、孝太郎とユキは両者とも納得の上での離婚という形になった。
「わしはユキに話が残って居る。幸恵は温泉にでも入って来なさい。温泉の質は良いぞ。なにせ、源泉掛け流しだからな」
孝太郎は幸恵を席から外す。
孝太郎とユキは二人っきりで何やら話す。暫くして木村和枝が呼ばれた。
「和ちゃんに折り入って話がある。今、ユキに話したのだが、やはり和ちゃんにも伝えておくべきだとなった」
「改まって何の事でしょうか?」
「実は、和ちゃんの父親の所在が分かった」
「ええ? 私の父・・・ですか?」
「そうだ。和ちゃんがわしの事務所を手伝ってくれていた頃から、暇を見ては探していたんだ。例の件で暫く間が空いてしまったが、何とか探し出せた」
「そんなー。私の為にそこまでしてくれていたんですか。私にとって父は居ないも同然だったのに。すいません」
和枝の言う「すいません」は、父を探してくれて有り難うの意味では無い。勿論、孝太郎もユキもそれは分かる。
「私たちの為に骨を折って下さっていたなんて知りませんでした」
和枝は再び頭を下げた。
「和ちゃんの気持ちは私たちにも少しだけ分かる。だから、無理して会わなくても良いのよ。家(うち)の人に義理立てしなくて良いのよ」
ユキが心から心配して言う。
「そうだよ。ジックリ考えてから結論を出しなさい。ただ、和ちゃんのお父さんは癌で入院していて、もう長くないようなんだ。長い時間は待ってくれないかも知れない」
「叔父様は、父に会ったのですか?」
「直接は会っていない。ただ、家族とは正体を明かさずに少しだけ話を聞けた」
「父には家族が居たのですか?」
「恐らくだが、お父さんは和ちゃんの存在自体、知らないと思う」
「そうですか」
和枝はそれ以上喋らなかった。
「和ちゃんが考える通りにするのよ。決して私たちに気を遣ったりしては駄目よ」
ユキは和枝に念を押すように言う。